知恵と技 匠

伝統の技術と誇りを持つ「飛騨の匠」と建てる住まいづくり

日本の家づくりにおいて「飛騨の匠」抜きには始まりません。
伝説ではなく、その伝統と技術は現代においても受け継がれるものです。
 

「かにかくに 物は念(おも)わず 飛騨びとの うつ墨縄の ただひとみちに」


「飛騨の匠」の並外れた技術と、仕事に打ち込む様を讃えてある歌人が詠んだ万葉の一句といわれています。

木の性質を熟知し、天地、自然の理を活かし、熟練の技術によって造られる「家」には、命が吹き込まれるとも言われています。丸共建設では、ここ名古屋においての家づくりにはかかせないものであると考え「飛騨の匠」で建てる伝統の家づくりを実現させています。

「飛騨の匠」の歴史

奈良時代、農民は米や織物、地域の特産物を納めなければいけませんでした。当時の飛騨は貧しく、米や織物を納めることができるほどの収穫はありまんせん。しかし、飛騨は山国。豊かな森林があり優れたきこりや大工さんがたくさんいました。

そこで、代わりに、集落の50戸毎に大工を10人差し出すようになったのです。当時の飛騨は500戸程度と推測されるので、毎年奈良の都に約100人が徴用されました。主に宮殿や大寺院を建てる仕事に従事し、五人一組で動いていたと言われています。1人が炊事係、他の4人が伐採、運搬、木挽きなどの木工作業員です。飛騨から出てきた飛騨の農民は、とてもよく働き、優れた木工技術を持っていたことから都の人は総じて「飛騨の匠」と呼ぶようになったのです。

「飛騨の匠」は薬師寺・法隆寺夢殿・東大寺など数々の社寺仏閣の建立に関わっており、平城京・平安京の日本建築の黄金時代を一翼を担っていると言われています。また、「飛騨の匠」の木工技術は「飛騨工作」として優れた技術の伝統として受け継がれていきました。

都へ匠が訪れた平安時代末期までの期間は約500年。つまり延べ4万に近い匠が従事したことになります。
役目を終えた「飛騨の匠」たちは、故郷にもどり都で経験した新しい文化を故郷の国作りのために生かしました。のちに、「飛騨の匠」といえば名工の美称となったのです。

主に「匠様」との名称であがめられたのは、鎌倉時代に実在した藤原宗安で飛騨の大工としてははじめて受領名と飛騨権守の地位を受けました。これは、当時の職人としては最高の位といわれています。

丸共建設が飛騨の大工にこだわる理由

丸共建設がかかげる3大満足「安全に暮らす」「安心して暮らす」「末永く暮らす」を考えたとき、飛騨の大工の存在は欠かせないものとなりました。

いうまでもなく家は人が建てるものです。そしてその家は木でできています。人も木もひとつとして同じものはありません。それぞれにくせや相性があるのです。

人は会話をすることで、相手を理解することができますが、木は会話もしなければ相手を理解することもありません。

そんな木をどのように扱えばいいのか、伝統の知恵と技術で知っているのが飛騨の大工なのです。

より長く、より快適に過ごすための木の使い方を知っているものたち、よりよい家づくりをするためにも飛騨の大工の技術を私たちは尊重し、これからも共に家づくりをしていきます。